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このサイトの管理人の経歴

※気が向いたときに随時加筆修正してます。

1975年4月 0歳16日生まれ O型 大阪出身
1994年4月19歳好きだった従兄弟が卒業したコンピュータの専門学校に入学するも授業レベルがとても低く、ほとんど学校に行かずアルバイトに精を出す。
卒業までに体験したアルバイト。
  • 社員専用レストラン。後述する深夜ローソンのバイトをする前まで続けた。
  • 交通量調査。上述のレストランの新店舗の調査で2日。
  • 深夜のトラックの積み込み作業。友人3人と2日。
  • 阪神淡路大震災後の弁当作り。上述のレストランで復旧するまでの数日。
  • 深夜のローソン。数日。偉そうな先輩が大嫌いですぐに退職。
  • 深夜のカラオケ。わずか2日目で無断欠勤&退職。当時の店長には本当に悪いことをしました。バイト初日、酔っ払ったお姉さんたちにからかわれたことはほんのり覚えてます。
  • ファミレス。お客様が来店したときに「ようこそ○○へ!」と元気よく店名を言うのが恥ずかしくて数日で退職。
  • パチンコ屋。当時は住み込みで働く従業員がおり、そこの先輩がヤバ気な薬をやっていることを仄めかすので嫌だったけどどこか惹かれるものがあった。他に働いていたヤンキー夫婦はいまでも印象に残っている。
  • 1995年1月19歳阪神淡路大震災を実家の岸和田で体験する。この頃はほとんど学校に行かなかったのに、震災当日は新大阪にあった学校まで電車で行くも閉校しており、帰りにバイトしていたレストランに寄ると震災で困ってる人の弁当を作っていて感動した。
    1996年3月20歳コンピュータの専門学校を卒業する。この専門学校で後述する宇久島出身者の友人と同級生になっていたが、当時は彼が五島列島という長崎県の離島出身という認識しかなく、宇久島の記憶はない。
    1996年4月21歳大阪市内の会社に就職し、汎用機オペレータを経てプログラマとして勤務する。入社当初はプログラムをやらせてもらえずとても不満だった。この頃は人生でもっとも尖っており、尊敬できない先輩を馬鹿にし、こんな無能な人間にはなりたくないとも思い、しかもそれを心の中だけで思うだけでなくややオブラートに包みながらも先輩に直接伝えていた。このときは陰口を叩くことをかっこ悪いと思っていたため、嫌なことは本人に直接言うことを心がけていた。今では考えられないほど恥ずかしい。
    2002年6月27歳親に相談することなく会社を辞め、親に東京に移住することを報告したその日、友人の車に少ない荷物を乗せて関東へ移住する。この友人はコンピュータの専門学校の同期。彼は3年卒業コースだったが自分は2年で卒業で、3年コースではより本格的なプログラミングが学べたようで、彼はプログラマとしてすぐ就職するとができてとても羨ましかった。この頃はとにかく親から離れて独立したかった。自分からの一歩的な視点で両親はそんなふうに思っていないかもしれないが、両親(特に父?)は僕がやりたいと思ったことが自身の意にかなっていないと問答無用で反対するという人で、昔からやりたいことがやれず我慢してきたのが嫌で自由になりたかった。しかしここで一人暮らししたと相談したところでどうせ反対されるだろうと考えた結果、当日報告&脱出という計画を決行。今でも両親とは考え方が違うようで話していても楽しくない。
    2002年7月27歳派遣社員として某ケーブルテレビ会社の営業をするがうまくいかず1ヶ月ほどで退職を考える。そのとき管理部門の先輩と仲良くなり、そのつながりで管理部門長にコンピュータのスキルを認めてもらい、営業部門から管理部門へ異動する。
    2003年11月28歳管理部門の先輩からコンビニエンスストアを一緒に経営しようと誘われる。このまま某ケーブルテレビ会社で働いて正社員登用への道を目指す道もあったが、それよりこの一風変わった先輩と一緒にコンビニエンスストアを経営したほうが面白そうな人生だと思い、退職する。
    2003年12月28歳先輩が急病のため、12月1日から一人でコンビニエンスストアの店長を一年間務める。ここからの1年間は自分にとって最初の暗黒期であり、家族や友人からのメールに一切返事せずに沈んでいた。しばらくして両親から警察に捜索願を出そうと思っているといったメールがきたため、さずがにまずいと思って電話した。この第1次暗黒期時代に前述した専門学校で出会った宇久島の友人から電話があったが無視している。
    2004年11月29歳コンビニエンスストア店長の契約が一年だったため、11月30日で契約更新せずに退職する。その数日前に職安で面接の予約を決めており、退職した日の午後に次の勤務先となる会社へ面接にいき、翌12月1日から勤務することになる。このときの社長と誕生日が同じ4月16日だったことについては運命を感じたが、10年後に退職することとなる。
    2004年12月29歳金融系のコンピュータ会社に就職し、システムエンジニアになる。
    2007年8月32歳禁煙開始。現在も継続中。
    2010年12月35歳あまりにバカバカしいテレビ番組を見たことで突発的にテレビを処分し、現在も自宅にテレビがない生活を継続中。
    2011年3月36歳渋谷の7階のビルで勤務中に東日本大震災を体験し、今までの人生の中でもっとも死を意識する。
    2012年10月37歳不景気により会社の業績が落ちてきて仕事がなくなってきたので、某漢方薬会社へ孫請け的な感じの派遣社員ととして勤務することなる。このときに漢方薬を詳しく知り、漢医学、中医学、アーユルヴェーダ、ヨガなどに興味を持つ。今までの人生のなかでこの漢方薬の会社の体制がとても素晴らしくて社員として働きたいと思った。実際にその会社は他社から引き抜いた社員が多くいたので自分もという気持ちが少なからずあったが、一方で業績が悪化している自社を見捨てていいのかという葛藤もあった。また、仕事がないからと言って優秀な自分を外に出す社長への不信感もあった。
    2014年12月39歳段ボール肉まんを皮切りに始まった食品偽装問題で食品に対する不信感を抱き、もはや自分で食べるものは自分で作らなければ安心できないという想いにかられていたころ、偶然に池袋で開催されていた農業人フェアに参加し、実際に農業を営んでいる農家で農業体験できるという制度を知る。
    2015年1月39歳会社の休日を利用して千葉県流山市の有機農園にて農業体験をし、農業に目覚め退職する決意をする。ある日、退職届を提出しようと覚悟を決めた日の始業前に後輩から「今から辞表を提出する」と聞かされる。この後輩は2012年10月の少し前に自分と同じように他社へ派遣社員として勤務されており、しばらくしてから「この会社から正社員にならないかと言われている」と相談を受けていた。自分は今までの社会人人生の中で彼がもっともすぐれていた人物だと思っており、彼を社長にすれば今勤めている会社を大きくできると思っていたからその相談はショックだったが、彼が引抜きを受けた会社は大きかったし、結婚して子供もいる彼にとっては転職して多くの安定収入を得ることが最善だろうと考えて本心とは裏腹に転職を勧めてしまった。彼のあとに自分も退職届けを提出し、午後から社長と最後のお別れ面談をした。
    2015年3月39歳最後に受け持っていた仕事の完了を見届けて金融系のコンピュータ会社を退職する。
    2015年4月40歳千葉県流山市の有機農園にて2年間の農業研修生として就職する。当初はこの農園長のことをとても尊敬していたが数ヶ月してうまくいかなくなった。たぶん自分がやりたいことをやらせてもらえなかったからだと思うが、今となってはこの農園長も一人で長年試行錯誤してやってきて成功していることを、自分のような素人の意見を聞いて試してみようとは思わなかったんだと思う。このときの自分は本当に嫌なやつで農園長のやることはすべてが嫌で、どんなにいいことかどうかの判断をする前に、農園長が言っているからという理由で反発していた。いつか謝りたいとは思っているが、その機会は未だに訪れていない。
    2016年3月40歳コンピュータ専門学校時代に知り合った宇久島出身の友人がたまたまフェイスブックで自分を見つけて連絡をくれ、宇久島へ遊びに行くことになり魅了される。
    2016年7月41歳2年間の農業研修を満了せずに退職する。
    2016年8月15日41歳長崎県の五島列島最北端の宇久島へIターンで移住する。
    2016年8月16日41歳塩工房ひかりで海水を使った塩づくりを始める。
    2017年4月1日41歳長崎県の漁業者育成プログラムを利用して2年間の漁業研修を開始する。この漁業研修は実際に漁を営んでいる人の船に乗せてもらって漁業を教えてもらいながら補助金で毎月給料をもらえるという制度で、初代親方は塩工房ひかりで塩を作っていた人でした。この人は主に刺し網漁をしており、自分も独立後は塩を作りながら刺し網漁をするというスタイルを夢見ていた。
    2018年1月31日42歳初代親方の怪我により塩工房ひかりが閉鎖され、2代目の親方につくことになる。ここからの研修は本当に辛かった。理由の詳細はブログなどで公にしたくないので割愛。知りたい人は対面したときに聞いてください。ある意味ここから2019年3月までが第2次暗黒期といっても過言ではない。
    2019年3月31日43歳2年間の漁業研修を終了する。辛かった研修から開放され、翌日から漁師として独立することになり、希望に胸が震えていた。しかしこのあとわずか1週間後にとんでもない事件が起こることはこのときの僕は知る由もない。
    2019年4月1日43歳いきなり漁師として独立するのは収入面でリスキー&漁協の職員が少ないと聞いていたため、7/31まで漁協でアルバイトをしながら漁をするつもりだったが……。
    2019年4月8日43歳第2次暗黒期開始。前日の4/7に中古の漁船を平島まで取りに行き、一泊してから宇久島へ向かう途中でエンジンが爆発。一度も漁に出ることなく漁船を破壊してしまう。今までの人生で一番死にたいと思ったが根がポジティブなためなんとか思いとどまる。この事件の詳細も公の記録として残したくないので割愛。結論としてはすべての責任を自分がかぶり、最終的に150万円ほどの手出しで再スタートを切ることになる。サラリーマン時代に多少の蓄えがあったので助かった。
    2019年8月1日44歳8/20まで海水浴場で監視員のアルバイトをする。
    2019年10月5日44歳初めての水揚げ。この日から漁協に魚を持っていき売上として収入を得ることになる。ここが漁師人生のスタート。しかしこの段階で自分は漁師としてのスキルがほとんどなく、まだしばらく第2次暗黒期は続く。
    2019年8月25日44歳ホテルでアルバイトを始める。基本的にお客さんが多いとき&時化のときだけ。
    2020年4月1日44歳ゴミ処理場でもアルバイトを始める。基本的に時化のときだけ。
    2021年1月1日45歳この年から漁協以外のアルバイトは完全にやめる。漁協に関しては漁師さんがもってきた魚の仕分けなどの現場仕事はせず、パソコンを使った事務的なことを時化のときに少し手伝うというスタンスで続けている。このあたりのことはまたいずれ加筆修正します。

    ひとこと

    若い頃は肉体労働なんてまったく頭になく、かならずホワイトカラーの職につくと決めていました。両親からもそのように教育されていた気がします。おそらく祖父母が農業をしていて苦労していたのを見てきたから、子にはそのような苦労をかけさせないようにとの想いがあったのでしょう。

    原発事故を東京で体験したことにより、死というものをはっきりと考えるようになりました。また、このときに放射能の恐ろしさをメディアがこぞって取り上げて視聴者の恐怖心を煽っていたため、本当に毎日が恐ろしかったのですが、しばらく経過しても身体に異変が感じられず、この頃からメディアに対して少しずつ不信感を持つようになりました。

    昔から健康オタク気味で、基本的に風邪程度では薬は飲まずに治していたように思います。37歳のとき、某漢方薬の会社で短期間働く機会があり、そこで漢方薬をきっかけに東洋医学に目覚めました。この頃アーユルヴェーダやヨガなどを知りました。

    39歳の頃に食品偽装問題が取り沙汰されるようになり、食に関する企業に不信感を覚え、普段購入している野菜などが安全なのか信じられなくなりました。このときに池袋で農業人フェアというイベントがあり、なんとなく参加したところ、農業体験ができる制度があることを知り、のちに研修生として受け入れてもらうことになる千葉県流山市の有機農園で農業体験をさせてもらいました。合計6日間の研修を終えたときには農業をやりたいという気持ちがとても強くなり、約10年間勤めた会社を辞めて農業研修をはじめました。

    2年の研修後に千葉県で独立する予定だったのですが、このときに宇久島と縁ができたため、2年の研修を終えずに後先考えず宇久島へ移住しました。

    今までのスキルをすべて投げ出し、一から漁師として生きていきます。できればでいいので、応援よろしくお願いします!

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